歩夢はイマイチトキメキが足りない
虹ヶ咲アニメ始まりましたね。本当に最高の一話でした。
あまりに最高すぎて全シーンよかった点を挙げていきたいですが、そうするとキリがないので、個人的に最推しポイントについて書きたいと思います。
「侑は歩夢のパフォーマンスをイマイチトキメキが足りないと思っている。」これです。
待ってください、全国の幼なじみの皆さん、石を投げないでください。別に歩夢をディスってるんじゃないんです。
侑は歩夢のパフォーマンスにトキメいていない
根拠となるのは、「今はまだ勇気も自信もぜんぜんだから、これが精いっぱい」といって渡したパスケースです。
このパスケースは冒頭のデート買い物シーンで、侑が「イマイチトキメキが足りないね」と言っていたものです。この発言を踏まえると、「これが精いっぱい」の「これ」=「歩夢のパフォーマンス」=「イマイチトキメキが足りないパスケース」という等式が導けます。
また、「イマイチトキメキが足りない」のは侑の感想なので、すなわち、
『「歩夢のパフォーマンスはイマイチトキメキが足りない」と侑は感じている』
ということになります。
実際、せつ菜と歩夢のパフォーマンス前後の描写を比べてみれば一目瞭然です。
まずパフォーマンス中の夢中度。
せつ菜のときは、侑自身がせつ菜の燃える世界に飲み込まれていましたが、歩夢のときは、小さなハートが数枚飛んできただけでした。それも足元にです。全然飲み込まれていません。
次にパフォーマンス後の反応。
せつ菜のときは、目を輝かせ、感動をすぐさま歩夢に伝えました。一方、歩夢のときは、棒立ちのまま、目も輝かせていません。歩夢に駆け寄ったりもしない。心が動かされていないんです。
やっぱりディスってんじゃねーかと言われそうですが、これは歩夢自身もわかっていることです。
パフォーマンス後に不安げな顔を見せていますし、自分のパフォーマンスの象徴としてイマイチトキメキが足りないパスケースを渡していることからもわかります。
視聴者である我々は、「歩夢の新曲のMVかわいい~」と無邪気に喜び、分身である侑も同じように感動したと思い込んでますが、作中ではとても残酷な断絶が起こっていたのです。
幼なじみの頑張りをそんな風に思うなんて、侑ヒドイ!と思うかもしれません。しかし、「歩夢のパフォーマンスはイマイチトキメキが足りない」と感じているからこそ、続くシーンがより輝きだし、素晴らしいものとなるのです。
虹ヶ咲のスクールアイドルの定義
スクールアイドルとはなにか。その問いに無印もサンシャインもそれぞれの答えを出してきました。無印では「限られた時間の中で輝くもの」、サンシャインは「足掻いて足搔いて足搔きまくったそのキセキ、それはずっと消えない存在」。
その答えは作中の最後に示されていまいたが、本作では早々に定義が与えられます。
「スクールアイドルは思いをまっすぐに伝える存在」
歩夢が魅力だと語ったこの言葉が、本作におけるスクールアイドルの定義です。
この定義を踏まえ、歩夢の描写を見返してみましょう。
スクールアイドルをやりたいと語ったとき、「本当はかわいいものが好き」「スクールアイドルになりたいと思った」といった歩夢の本心が語られました。
一見唐突のように見えますが、すべて事前に描写されていることです。
「本当はかわいいものが好き」
かわいいものの象徴である衣装(MVの衣装にもなっている)に最初に見つけたのは歩夢でした。かわいいものに惹かれている描写です。
「スクールアイドルになりたいと思った」
侑が誘う前に部室棟の案内を見ていたり、「わたし、まだ…」と発言したり、璃奈の質問に、目をそらして明らかに本心でないことを言ったり、これでもか、と示されています。
わかりにくいわwと思われるでしょう。それが、歩夢という存在であり、歩夢がスクールアイドルをする理由なのです。
歩夢は伝えたい思いがあっても伝えられない、または、婉曲的な表現でしか伝えられない娘です。一般的に女の子らしいと考えられている属性であり、スクスタ等既存の媒体でも、歩夢は女の子らしいキャラとして描かれます。
このアニメにおいて、その性格になったのは侑の影響が大きいと個人的には考えていますが、とにかく、意識的無意識的に歩夢は自分の思いを押し殺していたからこそ、まっすぐ思いを伝えるスクールアイドルに憧れ、なりたいと思ったのです。
二度目の開花宣言
スクールアイドルになりたいという思いを込めた、まさに開花宣言というべきDream with Youでしたが、残酷なことに侑には響きませんでした。
それでも歩夢は心折れず「私の夢を一緒に見てくれる?」と「まっすぐ」伝えます。
歩夢がスクールアイドルになりたいのは、歌ったり踊ったりしたいからではない。まっすぐ思いを伝えたいから。パフォーマンスが響かなくても伝えたい思いは変わらず歩夢の中にあるから。ただ無鉄砲に放たれたものではない、残酷な現実を受け入れたうえでの、二度目の開花宣言です。
この行動は本作におけるスクールアイドルの本質です。これを受けて、初めて侑は歩夢にトキメキます。
侑は歩夢のパフォーマンスにトキメいたのではない。歩夢のスクールアイドルになりたいという「思いをまっすぐ伝えられたこと」にトキメいたのです。
侑がパフォーマンスに感動してたら、この歩夢の覚悟がボヤけちゃうんですよ。侑が感動していないから、受け入れられるかという不安も浮かぶ。侑が感動していないからこそ、受け入れられたときの歩夢の喜びが大きくなり、カタルシスに繋がるんです。
冷めている侑
「もちろん。いつだって私は歩夢の隣にいるよ」
この言葉の意味を考えるには、侑のことも少し整理する必要があるでしょう。
侑はせつ菜のパフォーマンスに触れ、トキメキに浮かされ、歩夢の手を引きながらスクールアイドル同好会の部室を目指しますが、廃部になったことを告げられます。
この時点で、すでに侑は冷めちゃってる。トキメキに浮かされた状態じゃなくなってます。だから、歩夢が「残念だったね」と切り出し(これもスクールアイドルをやりたいという婉曲表現の一つでしょう)ても、「それはいいよ」と廃部を受け入れます。
冷めているからこそ、侑は歩夢のパフォーマンスを冷静に見ています。それが、歩夢とせつ菜のパフォーマンスの受け取り方の差に如実に表れています。
そして、歩夢のまっすぐな思いは、一度冷めてしまった侑を再びトキメかせることに成功しました。この二度目のトキメキは、せつ菜のときのように浮かされるものではありません。浮かされるほどトキメいていないから。逆に言えば、勢いではなく、ちゃんと自分の意思で感じ取ったトキメキということです。
トキメキに浮かされた状態なら、部室を探していた時のように、侑は歩夢の前を進んでしまいます。隣にいることができるのは、『「歩夢のパフォーマンスはイマイチトキメキが足りない」と侑は感じている』からこそなのです。
隣にいることができるのは、『「歩夢のパフォーマンスはイマイチトキメキが足りない」と侑は感じている』からこそなのです。
歩夢にとっては何よりも価値のある言葉ですが、実は残酷な意味をはらんでいるのです。めっちゃエモくないですか、この関係。
おわりに
いかがだったでしょうか。
『「歩夢のパフォーマンスはイマイチトキメキが足りない」と侑は感じている』という要素が最高の一話がさらに最高しているという思いに共感してもらえたでしょうか。
ちょっと待て、じゃあ虹ヶ咲アニメは歩夢をずっとトキメキが足りない存在として描くつもりか?と思われた幼なじみの皆さん。安心してください。そうはなりません。
「僕のヒーローアカデミア」という作品をご存じでしょうか。通称「ヒロアカ」、ジャンプで連載中の漫画で、ヒーローとヴィランの戦いを描いた、アニメ5期も決まっている人気作です。
虹ヶ咲アニメ1話は、このヒロアカ1話と似た構造をしています。
個性という特殊能力を持ったヒーローに憧れる無個性の主人公、デク。デクはヴィランに襲われた友人を助けようとしますが何もできない。しかし、助けてくれた№1ヒーロー・オールマイトは「無個性の君が動いたからこそ自分は動かされた。君はヒーローになれる。」と宣言します。そしてデクのモノローグで〆られます。
「これは僕が最高のヒーローになるまでの物語だ。」
幼なじみの皆さんには次に1話を見終えるときモノローグが聴こえてくることでしょう。
「これは上原歩夢が最高のスクールアイドルになるまでの物語だ。」と。